西の学者の手記

ムル・ハートと彼とともに仕事をした人間の学者に、「魔法使いの約束」の世界を説明してもらうブログです。

魔法使いたちと海


 崖の肌を白い波が叩いている。ざぶんと響く波の音は今にもこの岩の崖を壊してしまうのではないかと思えた。波の上で跳ねる風の中を、ぴぃと高い鳴き声を上げて一羽の白い鳥が飛んでいく。黒い波と灰色の雲の間に、その白い鳥は消えていった。
「ちょうど、前に行った西の国の浜辺と大陸を挟んで反対側にある海さ」
 海を恐ろしいと思う気持ちはきっと、わが西の国の砂浜ではなく、この東の国の切り立った岸壁から見る海で生まれたのではないだろうか。



 ムル・ハートの箒の後ろに乗って飛ぶことにはずいぶん慣れたつもりでいたが、打ち付ける白い波を見ていると、自分の頭にあるのが空なのか、足元にあるのが崖の上の大地なのか、それともすでに白い波に自分がもまれているのかわからなくなってしまう。
「これは確かに、怖いと言えば怖いですよ」
「おお。砂浜の海は美しいと言った君がか」
「まあ、怖くもありますがこの水の白さは美しくもあります」
「はは。強情だね」
 腰を下ろすと岩の上は湿っている。海の匂いが浜辺に行ったときよりも濃く感じるのはなぜなのだろうか。天気が曇っているから? 論理的に説明できる何かがあるはずだ。まだ私が知らないだけで。
「恐ろしいものは往々にして美しいものですよ。こんなに寂しい崖の上でも、揺れ動く黒い海と白い波は美しいじゃないですか」
 曇天からあの白い鳥がまた帰って来てくれないかと思ったが、なかなか現れなかった。
「君はこの海をずっと渡っていけばこの大地が丸いことを証明できると言ったね」
「今日も上空から見渡せば地平線はきちんと湾曲していました。だから論理上はこの大地は球体であるとわかるのですか」
「ほう。空から地上を見渡す余裕が出て来たね」
 ムル・ハートは感心したように両手を叩く。合わさった両の手のひらからぱちぱちと花火が飛び出す。
「ところで、今日はまた西の国の浜辺でしたのと同じ話を?」
「いや、違うさ」
 ムル・ハートも岩の上に腰を下ろした。
「もうすぐ私の愛がやってくる時期だからね」
 彼は雲に覆われた曇天を指さした。まだ日は高く、月が昇るまでには時間がかかりそうだ。
「そうでした。先生は賢者の魔法使いでもあったんですよね」
「そうでしたとは失礼な。愛に最も近い場所に居られる光栄なお役目だよ。知り尽くしたい、わかりつくしたいと焦がれる愛そのものの月にね」
 彼は何度も知り尽くしたいと思うことは愛だと言った。
「知り尽くしたい、わかりつくしたいと思えなければもはやそれは愛ではない。興味の放棄は愛の正反対にある『無関心』に近いことさ。月を追い払わなくちゃならない私は、どうしたって月に興味を抱く。興味を抱き続ければそれは愛以外の何物にもならない」
 ざんざんと波が崖を叩きつけていた。
「君は、月をどう思う?」
「月を、ですか?」
「私以外の意見が知りたい。できれば生まれて少ししか経っていないような人間の意見が聞きたい」
「まああなたに比べれば生まれて少ししか経っていませんが」
「それが良いんだ。私は時折、永く考えすぎることに飽きてしまう」
 月。毎年一度必ず近づいては天災をもたらす天体。夜になると空に大きく浮かぶ。海よりも人々に恐れられている存在だった。宇宙が大地と近づき、大地も宇宙の一部であると否が応にも確認させられる天体。
「天体、天体ですよね。一定の周期を保ってこの大地に近づき影響を及ぼす唯一無二の天体」
「月によって大地に住む精霊たちや私のような魔法使いは強く影響を受ける」
「何か、理論では説明できない力を備えている天体というところでしょうか。あちらはこの大地に干渉してきますが、こちらから月に何か干渉するとしたら魔法使いの力で押し返すしかない」
 私は息を止めた。何故、魔法使いしか月を追い返せないんだろう。どうして人間には月を追い返す力が無いのだろう。
「もしかして、魔法使いはそもそも月を押し返すために生まれた存在なのでしょうか」
「……そうだ。そうか、そこまで考えられるようになったか」
 ムル・ハートは小さく小さく呟いた。そして、空中に丸い光を浮かび上がらせた。



光は彼の右手の人差し指から伸びている。
「私がその仮説に辿り着くまで、実に300年を要したのに君はすごいな」
 くるくると指先から伸びる丸い光を彼が回すと、光はただの円形から球体になっていく。
「これを月とする。私はこれが近づくたびに、いや遠ざかっても観察を続けた。そして、一つの仮説に辿り着いた。恐らく、恐らくだが月にも地形がある」
 まあ天体ならば地形があるでしょうと言いかけて、私は何も言えなくなった。ムル・ハートは球体を私の目の前に持ってくる。
「まだ推測の域を出ないが、月はこの大陸と酷似した地形を持っている。少なくとも私が観測できた大地の縁はこうなっている」
 球体にはうねる線が走り一つの図形を表していた。
「ここが以前行った西の国の海の海岸線、そしてその反対側にあるのが今いる東の岸壁」
「反転している」
「その通り。まだすべては観測できていないが、私が『月の海』と名付けたくぼんだ地形と、この大陸の形は酷似している」
 まさかと思うが、日のまだ高い今では月を観測することもできない。
「もしかして、先生はあの天文台を」
「そう。元はといえば月を観測するために作った」
 月のことが分からなければ何もわからないからだとムル・ハートはつづけた。
「そもそも、どうして私のような魔法使いの力は、一部の魔法生物や魔法使いとして生を受けた我々にしか使うことができないのか。どうして20人ほどの魔法使いは毎年月を追い払うために動くのか。魔法使いを魔法使いたらしめるのは誰か。月を追い払う力を持った魔法使いが、何故群れる必要のない長寿を生きるのか。考えれば考えるほど月を知らなくてはいけなくなってね」
 考えすぎると飽きてしまうが、飽きてはいけないと思う。ムル・ハートは大きくため息をついた。
「魔法使いの長寿は、恐らく月によってもたらされたものだ。そしてこの長寿は、月とこの大地の間にある不思議を解決するためにある。だから私は学者を辞められない。考えることに飽きても、辞めようとは思わない」
 球体の光はムル・ハートの指を離れて空中に浮かんでいた。恐らく彼が手ずから書いたのだろう、月の大地の縁の線が刻まれている。確かにその線の一部は、彼の箒の後ろに乗って見た大地の縁のうねりに似ていた。
「先生の説が全て正しいとしたら」
「ああ。恐らくこの大地が出来上がった時に、大地と月は生き写しになった」
「もしくは、誰か意思のある者が月そっくりにこの大地を作った。もしこの突飛もない説が正しいなら、月そっくりにこの大地を作った者と魔法使いを生んだものは同じ者の確率が高い」
「素晴らしい。流石我が西の国の学者だ」
 ムル・ハートは何も言わなかった。ぴぃと鳴き声がしたので空を見上げると、雲間から先ほどの鳥がやっと一羽飛び出てきた。鳥は崖の上にいる人間にも魔法使いにも目もくれず、今度は海に突っ込んでいく。しばらくするとそのくちばしに一匹の魚をくわえてまた空へを飛び去って行った。
「巣に届けるのでしょうか」
「だろうね。鳥にも家族がいるだろうから」
 先生は自分の家族のことをあまり話さなかった。宝石商だったと聞いたがそれ以上のことは知らないままだ。「群れ」を作らない長寿の魔法使いという観念は先生の中で一貫しているのかもしれない。
「そこにあるものを当たり前と思ってはいけない。その瞬間に学者としては歩めなくなってしまうから。私はもう300年生きたが、それがいまだに恐ろしいんだ」
「先生にも恐ろしいものがあるんですね」
「ああ。考えることには飽きる。でも飽きることはなお恐ろしいんだ。海よりも月よりも」
 そう言うとムル・ハートは球体の光を両手で挟み、ぱちんと手を合わせて消した。
「食べるかい? 少量なら人間にも毒ではなく薬になる」
 先生の手のひらにはシュガーが山盛りに乗っている。幼い魔法使いが初めて作るというシュガーだ。白いものを一つつまんで口に放り込む。すぐにシュガーは溶けて行った。
 相変わらず崖には黒い波が打ち付けている。天文台に戻ったら、月を覗かなくてはいけないと思っていた。今すぐにでも月とこの大陸の間にある者が何なのか知りたかった。恐らく私が生きているうちには解明されないその謎が、恋しくてたまらなかった。
 私の人生もこの学問体系の一部になれば良い。しきりにシュガーを薦めるこの賢明な魔法使いもそう思っているだろう。

 

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