西の学者の手記

ムル・ハートと彼とともに仕事をした人間の学者に、「魔法使いの約束」の世界を説明してもらうブログです。

前書き

西の国のお抱え研究者 L氏の手記

前書き

ムル・ハートと一緒に研究をしたことがある。証明しろと言われても難しく、今まで何人の人間に「学者なら、誰でもそんな夢を見るさ。あの天才に一度で良いから会ってみたいとね」と言われたことか。しかし私は本当に人生の何年かをあの叡智に満ちた魔法使いと過ごした。満ちた、なんてものではない。叡智そのものだった彼と。彼を先生と呼び、彼とこの世界についてを探究した。

紫の髪を切りそろえて、熱心に月を眺めていた姿を、私は何度も研究室の窓に、書き終わった論文を綴じる紐に見た。ほら、私の言った通りだろうとも、私は違うと思うがねとも言いたそうな顔をそこに見るようだった。彼に会わなくなってから何十年たってもだ。

以下は学術論文でもなんでもない、私の手記である。手記というと聞こえは良いがまとまりのない散文である。証拠と証明と結果の求められるこの西の国の研究所で、どうにも証明しようのない、おとぎ話の魔法使いと出会ったことをまとめたいと思い、ただ書き始めた文字の連なりである。

 

文字の連なりと、そういえば彼も言っていた。

「長い時間を生きると、私はすべての研究を私一人の連続した一つの意識で完結させようとしてしまう。それではいけない」

 彼は被っていた山高帽子を魔法で空中に浮かせていた。帽子の先からはぱちぱちと火花が小さくはじけていた。上機嫌にも退屈という名の悪魔に乗っ取られたようにも見える顔でムル・ハートはその火花を眺めていた。

「どうしていけないのでしょうか? 長い時を生きるのであれば一つの大きな研究体系を一人で築き上げられると思うのですが」

 それは羨望でも嫉妬でもあった。人間の何十倍、何百倍も生きる彼らは歴史そのものにも、技術そのものにも影響を与え自分のものにできる。私はそれが許され、しかも生まれながらの叡智をまとったムル・ハートという男が羨ましくて憎くてたまらなかった。

「きみ、そんなので学者を目指しているのかい?」

 彼は火花を大きくすると、その炎の中に帽子を投げ入れてしまった。また帽子は生み出すから良いのだそうだ。

 

「研究体系は一人では作れない。あらゆる多様な意識、すなわち他人と他人が一つの物事について論じ合わなければ作れないものさ。今燃やしたこの帽子だって、より理想の帽子にするには色は青が良い、いや赤が良い。もっと高くした方が良い、いやぺしゃんこにするべきだと、二人以上の人間が言い合わないと良いものにならないだろう? 良いものを、良い研究を生み出すには複数の意識による複数の意見が必要なのさ。学問の常識じゃないかい?」

 ああそうだ。こうしてなんの反論もできないような言葉を突然、彼は天文台の窓から差し込む陽の光の下で話し出すんだった。今となってはあの光の下でどんな顔を彼がしていたのか証明ができないが。

「先生は、論じ合える誰かがいた方が良いと?」

「当たり前だろう。何百年もあとのどこまでも離れた人とも論じ合うために、文字の連なりで私は私の研究を残すのさ。愛する月について、私以外の考えが生まれることは嬉しいことだからね」

 天文台には何百年にも渡って彼が書き上げてきた書籍が積まれている。多くが月と、それを観測するための技術と、この大陸についての文献だ。

「印刷技術が未発達だった頃ですら、誰か私以外の人に読まれないかと思ってひたすら書いたよ。私は私以外の誰かにも愛する月とこの世界の謎を解明してもらいたい。そうでなければ私の研究も、私の愛も成就しないと思っているんだ」

「愛、ですか」

「ああ、愛さ。知り尽くしたい、分かりたいと思うことが愛でなければ何だというんだい?」

 愛によって、彼はその長い長い人生を学者たり得るのだろうと思う。私はどうだろうか。西の国の国庫から研究費をもらいながら、この大陸とこの国と他国のことについて知りつくしたい、分かりたいと思って研究を進められただろうか。

 私はどうしても、初めて会った時に数百年の時をすでに生きていた、ムル・ハートという天才にこの点で打ち勝てることができない。寿命が違うからか、彼が天才だからなのかも、もはや分からない。彼という一人の意識が残した膨大な文献と、一人の意識が私に残した考え方は不滅で、無敵であるように思う。長い寿命はどの研究者も欲しくてたまらないものだ。天才の頭脳も。それでも彼は、誰かがいなければ愛は成就しないと言った。

 もしこの散文が彼に届けば良い。私のことは忘れてしまっただろうが、ムル・ハートの研究という名の愛を後押しするきっかけになれば良い。そう思って書き出したこれは、私が人生と愛をささげてきた研究の、少しはみ出た文字の連なりである。

 


※このブログは、魔法使いの約束のファンが「まほやく世界はどうなっているのか」と考え、その仮説をムル・ハートと、彼の下で共に研究をしていた人間の学者に仮託して展開するものです。目次のページより、好きな項目からご覧になってくだされば幸いです。

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