西の学者の手記

ムル・ハートと彼とともに仕事をした人間の学者に、「魔法使いの約束」の世界を説明してもらうブログです。

ひとつの大陸

その日、私はムル・ハートに連れられて砂浜に来ていた。来てさっそく私は白い砂の上にうずくまり、ムル・ハートは興味深そうに私を見下ろしていた。



「空を飛ぶくらいでそんな風になってしまうとはね」
「あなたたちとは違うんですよ」
 目はぐるぐると回り、胃の奥から溜まっている物が食道を逆流して挙がってきそうだった。
「なんであんなに細い箒の上で態勢を整えられるんですか」
「それは慣れだね」
「非論理的ですね……先生らしくもない」
 ムル・ハートは私が初めて会った魔法使いだった。いや、おそらくそれまでも何人かの魔法使いには出会ってきたのだろう。彼らが私にそのことを開示しなかっただけかもしれない。ムル・ハートはずっと前から名の知れた天才で、あらゆる研究者がその面会を求めている存在だった。西の国の王宮にかけあってまで会いに行ったのは私くらいであったかもしれないが。
 当然、空を飛ぶのも初めてのことだった。空を飛ぶ! 羽根の生えた鳥や虫と、魔法使いにしか許されない能力。当然その原理は私には未知のものだった。未知のものに心躍らせてこその研究者である。箒にまたがった彼の後ろに乗った時は至上の高揚感を覚えたものだったが、それはすぐに消えてしまった。
「空中は水中と同じく、当たり前に足場がない」
 砂浜の上でやっと顔を上げる。空はその時確実に頭上にあり、私は確実に砂浜に座っている。それは安定と安心そのものだった。
「惜しいね。水中だとしても海底や川底がある。空の底はない。空の底は地上だからね」
「そんなのわかってますよ」
 足場がないことはとても不安定だった。魔法使いたちは何百年も足場のない空を飛んできた。長い寿命と特別な力があるからこそできる発想なのかもしれない。
「それで、どうして今日はここに?」
 ムル・ハートはまだ酔いのさめない私の目を見た。
「この大地の縁で考えたいことがあったのさ。君の意見が聞きたい」
 だいちのふち。目の前の海を見た。その時やっと私の視覚は海のきらめきをとらえる。午後の三時であった。太陽は西に傾き始め、あと数時間で水平線に潜り込むことになる。少し前まで恐れの対象であったはずの空はやわらかく淡い色をしていた。色。海は空の色を移しているが、波の陰で違う色となっている。ざあん、ざあんと波の音がする。天文台の近くの岸壁から聞こえる音とはまた違う波の音であった。
「うつくしい……」
 ムル・ハートは目じりに皺を寄せる。
「思った通りだ。君は海を美しいと言える側の人間なんだね」
「恐ろしいものは往々にして美しいものですよ」
「西の王宮からの申し出を受けて良かった。私に会いたがる者は沢山いるが、恐怖にすら美を見いだせる者くらいしか時間を割きたくないんだよ」
 ムル・ハートも砂浜に腰を下ろした。
「まさしくここは大地の縁だね。陸と海の境目に私たちはいる」
 彼は両足を砂浜に投げ出して話し出した。
 ムル・ハートの論はこうである。おそらくこの大地は丸いと。夜に輝く星々や、この海に沈もうとしている太陽と同じく、生命が息づく世界もおそらく丸い。
「わかりきったことです。天文台から地表を見れば、視界の右端と左端は婉曲していますから」
「そう。空を飛べばさらによくわかるだろう? 左右ではなく進行方向も婉曲している」
「ああ、そうか。そうなるんですよね。今日は全然そんなこと確認する余裕はありませんでしたが」
「飛ばなくても分かるさ。ほら、海を見れば」
 確かに、目の前の海はその水平線をやんわりとたゆませている。大地は丸く、またそこに続く海も丸い。
「すなわち、この大地も宇宙の星々の一つである」
「その通り。お偉いさんたちに説明して納得してもらうためには、もう少し時間がかかりそうだがね」
 球体であるならばなぜ海の水は零れ落ちていかないのか? そもそも丸い地表になぜ立っていられるのか? それを一つ一つ王族や貴族の前で解説していくのは骨が折れそうだし、おそらくこのあらゆる興味関心に飛びついてしまう魔法使いがすることではないのだろうと思った。
 ムル・ハート曰く、今私たちが立つ場所が球体ならば、北へ北へと進んでいけば必ず南にたどり着き、西へ西へと歩けば必ず東にたどり着くのだと。彼は空中に光る丸い球体を出し、それを回転させながら話す。
「方角というのはそもそも、立っている場所が球体だから決まることなのかもしれません」
「ほう。なぜ?」
「この地上が平面ならば、必ず北の果てや南の果てがあるはずです。でも果てはない。果てがないことが恐らく地上が円形であることの証左なんですけれど……うーん、果てがないことと方角があることが結びつきそうな気がするんですが」
 ムル・ハートの出す光る球体を見ながら思った。結局東西南北といった方角も誰かの考え出した概念に過ぎないのだが、それを超える理論がこの大地にあるような気がしてならなかった。
「結び付けられそうかい?」
「この海をずっとわたり続けることができればあるいは」
 ムル・ハートは手を叩いて笑う。
「やっぱり君面白いよ! そんなことを言える奴はなかなかいない。魔法使いにもいるかいないかさ!」
「そうですか? 長い寿命と不思議な力があれば、ずっとずっと水平線を追いかけていくことができるのでは? それこそ、空を飛びながら」
 紫色の髪が横に揺れる。長い寿命があるからさと彼は言う。
「長い寿命があるから、変わらないもの、知らないものを恐れるのさ。すべてを見て知ったような気持でいるからこそ、分からないことが恐ろしい。空も飛べるし天候すら変えられるから、不測のこと、知りもしないことに傲慢になれる。100年たとうが1000年たとうが知らないことは怖いまま。怖いことは怖いまま」
 白い砂浜に彼はいよいよ寝転がった。オレンジ色の光を帯びた太陽がその紫の髪を照らしていた。
「君たちは良い。人間は良い。面白い。短い人生だからこそ、その中で知りたいことを可能な限り知るために努力ができる。魔法使いはね、そう考える奴らが少ないんだ。だから私たちは私たちの生活圏、そう、人間の作る国のようなものを作れなかったと私は思うんだ」
「……なんか、壮大なことになってきましたね」
「壮大なことをするのが研究者じゃないか君。私の天文台に出入りするくらいなんだからこのくらい考えてくれよ」
 ムル・ハートは沈みゆく太陽をじっと見ていた。私はその先に何があるのか何も分からない、広い広い海を見ていた。この海をずっとずっと行けばおそらく東の国にたどり着く。私の人生にそれを証明する時間があるかは分からないが、やってみたいと思う。恐ろしいものは往々にして美しい。美しいものは解き明かしたくなる。そう、あの厄災のように。

 

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